食を考える。
今日アレクサンドリアのマーケットに行った。
そこは自動車の部品から、野菜、果物、魚、鶏、なんでも売ってある街だった。
とにかく、売れそうなもの、カネになりそうなものはなんでもある。
なんてことない風景だが、今日歩いていた景色は少し違って見えた。
ここでは弱肉強食の世界がリアルに描かれていた。
魚介類は瀕死の状態で生きたまま市場に出されている。
生簀に入れてある訳ではなく、本当に苦しそうに市場に出されている。
そして鶏だ。
鶏が異常に太っている。こんなに太っている鶏は初めて見た。
もちろん大きくした方が高く売れる。実際に何をしているかはわからないが、何かをして鶏を異常に太らせている事は間違いない。そして目の前で次々と計量器に乗せられ、首をもがれて売られていく。
普段の食事でもわかっているつもりではいた。
だがやはり実際に体験して見て見ないとわからないものだ。
食べ物はこうして自分の胃袋に入ってくる。
自分は魚を1匹注文した。
その場で鉄板に乗せられ調理された。
調理された魚を買った。そして食べた。
この魚は紛れもなくさっきまで生きていた。
命はその場で消え、その調理された身が自分の胃の中に入っている。
今俺の血となり肉となっているのだ。
俺がその命を絶ったと言っても過言ではない。
ここまで意識的に考えた事はなかった。
可哀想ではない。
だが、「仕方ない」では終わらせない。
だから考える。
今まで俺が食べてきた全ての食べ物は、元を辿れば必ずこうなっているのだ。
そして今俺が生きている。
今日生きていられる。
実際に「処理」されているのを見て感じた事。
それは「ただ単に自分が真実を見たくないから避けてきた」という事だ。
自分から「真実」を見に行こうとすればいくらでも手段はあった。
しかし、誰だって嫌な気分になる光景は見たくない。
だから行動に移さず、真実に目を向けず、避けてきただけだ。
しかし、今回向かいあって再び考えさせられた。
そして今考えさせてくれる機会をいただいている。
結果的に、「真実に目を向ける事が自分の成長」に繋がっているのだ。
今日改めて、食に感謝させられた。
今自分が生きているのは、巡り巡ってこの地球にやってきた魂達のおかげだ。
それを絶対に忘れてはならない。
日本の教育では真実を見せないように教育する。
俺の頭の中にはまだ「日本式教育」が刷り込まれている。
こういった真実に触れる度、いかに「日本式教育が不自然か」という事を考えさせられる。
だからもう一度考えなければならない。
自分の為にも、日本の為にも。
2つ大きな課題ができた。
1つ目は、これからは真実を率先して見に行く事。結果的に自分の成長に繋がる。
2つ目は、日本式教育をもう一度考え直すという事。
もっとこの世界を知って生きたい。もっとこの世界を理解して生きたい。