学びを考える.1

学びとは何だろうか。

学ぶとは「まねる」から派生していると聞いたことがある。

学ばない人はそこで成長が止まり、学び続けることが人を成長させ続けるのだと思っている。

そして学ぶ事は生き残る事にも直結している。

 

エジソンが電気を発明した。

そして全世界が電気を真似た。

スティーブ・ジョブズが i phoneを創造した。

全世界がスマートフォンを真似た。

 

隣の畑が潤っていたら、なぜ賑わっているのか考える。

何が違うのか?

生き残る為に、考えて、真似る。

 

人間は誰でも真似る。全く真似ない人などいるのだろうか?

自分もいろんな人を真似たから今の自分がある。だから言い方としては、「真似させてもらった」というのが正しくて、真似させてもらった人や物には感謝の気持ちを忘れてはならない。

人から「誰かからもらい続ける事しか考えない人間」になっては、最後は「奪われ続ける側の人間」になる気がしている。

 

だから「真似る事」は悪い事ではない。卑怯ではないし、当たり前なのだ。

人類は誰かが「発明して、全員が真似をし始める」から進歩していく。

そしてその遺産を残したい。来世によりよく、かつ正確に残す為に「歴史」があるのだ。

 

だから人は歴史から学ぶ事ができる。自分たちの祖先はどこからきたのか。これまでどういう旅路を辿ってきたのか。残念ながら、日本語でこれらのドキュメントを残しているのは、全世界に比べると圧倒的に少ないだろう。ほとんどが英語だ。とにかく、自分が思っている以上に歴史はもっともっと深く、そしてまだまだ解明されていない。いつの時代も人間は人間だ。きっと人間の根本のところは変わらないのだと思っている。だから自分たちは、今目の前の現象からも、過去の先人達からも同様に、「真似る」事はできるのだ。

 

ではどうすれば自分の学びたい事を効率的に学ぶ事ができるようになるのか。

ここに「興味」という大きなキーポイントが入ってくると考えている。人間には「興味」という感情がある。「知りたい、気になる」という感情だろうか。これを学びに利用するのが一番効率的だと思っている。ハッキリ言って、興味がない事をいくらやった所で続くわけがないし、嫌な期間が続くだけだ。自分の好きな事や、興味のある事を学んで言った方が絶対的に効率が良い。

 

第一に、「率先して行うようになる」全く義務的な感情がなくなるのだ。そうなれば苦痛でもなんでもない。あとは勝手に引き寄せられるように自分から率先して行うから続く。

 

第二に、吸収力が違う。興味があるものとないものとの自分への血肉化されるとして、全く吸収力が違うと思っている。好きな物を理解した時は一回で一生忘れないが、数学の公式は高校でやっても大人になれば忘れる。

 

そしてこの「興味」というのは年齢を重ねる毎に低下してくると思っている。しかし、大人になっても興味が薄れない人達がいる事も事実だ。なぜこの人達は興味が薄れないのだろうか?大きく2つあると思っている。

一つは「興味の大切さを理解している」ということ。

興味から始まり、やり続けた先の達成感を知っているから、他の事でも同じ事をやろうとする。それ以上の達成感を味わおうとするのだ。だから常に次の物を探していて、興味を感じる物があれば実際にやってみるのだ。「達成した経験」がある人はその先を知っている。

言い方を変えれば、カネを稼いだ人間は、カネは稼げる事を知っている。

有名になった人間は、有名になるやり方を知っている。

宇宙に行った人間は、宇宙の行き方を知っている。

興味から人生が変わった人間は、興味の大切さを知っている。

 

二つ目は「エネルギーがある」という事。

人間には見えないエネルギーが宿っている。そしてそのエネルギーを絶え間なく燃やす続けている人間だ。その人にエネルギーがあるから、この世界の何の物にでもとっつきやすいのだ。毎日嫌な思いばかりをしてエネルギーを消耗していたら、目の前に海があったとして飛び込めるだろうか?だから、「毎日幸せ!」だと心の底から思う事は、興味を引き出す事に大きく作用されると思っている。だから自分の生命エネルギーをどう引き出すかという事はとても重要なポイントだ。

 

生物はなぜ「学ぶ」のだろうか。

なぜ自分は学ぶのだろうか?

現時点で分かっている事は「生き残る」という事だけだ。

学ぶ事は生き残る事に直結している。

「そうだったんだ!」という大きな感情が芽生え、心が動く事もある。

これは幸福感に近いだろう。

そして過去との同じ過ちを繰り返さない為に、「歴史」がある。

人間は賢いから、歴史から学べるはずだ。

それでもなお戦争は終わらない。

自分たちの心の奥底に大きな「ナニカ」が眠っている限り。

 

 

 

行動を考える.3

今日フリーダイビングのコースが終了した。

あっという間の4日間だった。

この体験を忘れないように終わった今夜、書く。

フリーダイビングのテクニックどうこうは書くつもりはない。

ただ、「行動を起こした結果」という現象について綴りたい。

 


▽なぜフリーダイビングにチャレンジしたのか?

理由は2つある。

一つは直感的にやってみたいと思ったから。

これが最初にでてくる。不思議な事に、パソコンの画面でみたところでやってみたいとは思わない。スキューバダイビングをやっていた横目でフリーダイビングを見ていた時もやってみたいと思わない。身近でやっている人がたくさんいるのに、まるで灯台下暗しのようにフリーダイビングの存在は自分の頭の中になかった。

だけど、「真剣に自分の人生を考えている時」にふと目に入ってきた。

フリーダイビングとは何だろうか?スキューバダイビングと何が違うのだろうか?

何が楽しいのだろうか?調べるうちに、このスポーツが「エクストリームスポーツ」の部類である事が判明した。正直なところエクストリームスポーツをやってみようと思ったことは今までなかった。こんな事で命を落とす人達はもったいないとすら考えていた。しかし、その自分の「限界」を体験している人達を尊敬していた事も事実だ。その「限界」をコントロールできて自分を超えた時、その人に何かが起こっているのだろう。

 


二つ目の理由

それは、「行動に起こした結果どうなるかを体験的に知りたかった」からだ。

今回フリーダイビングを申し込む前にかなり悩んだ。

何かに挑戦するという事はやはり怖い。

本当にやるべきなのだろうか。

やって後悔しないだろうか。

嫌な気持ちにならないだろうか。

最後までやり通す事ができるだろうか?

「行動を起こして考える」

という事と

「考えてから行動に移す」

という事は何が違うのだろうか?

それを体験的に知りたかった。

そして考えた末に、「やってみないとわからない」という結論になり「考えた末に行動」に移した。しかし、今考えてみると

「試行錯誤している時間(どーしようかな)」と

「行動に移すと決めたあの瞬間(いけっ)」

は別の物だったのではないかと思う。

 

 

 

▽行動に移した結果。

そして4日間はフリーダイビングに集中すると約束し、トレーニングを重ねてきた。

その間にいろいろな現象が起きた。自分なりに気づいた事を書く。

 


まず第一は「人」だ。

何かに挑戦をすると「人との出会い」が圧倒的に増える。

今回フリーダイビングに申し込まなかったら絶対的に会わない人達と出会った。彼らからしたら自分は「お客」であるが、例えお客だとしても必ずそこに「コミュニーケーション」が生まれる。今回自分のインストラクターから学んだ事はフリーダイビングのテクニックだけではない。現地の触れ合い、体験、歴史、文化、宗教、習慣、技術、会話。いろんな事を「実際に見て学ぶ」事が出来た。「人との出会い」は「人とのコミュニケーションを生み」、「人を成長」させるのは間違いない。

 


第二に「時間」だ。

この4日間、本当に早かった。なぜこんなに早かったのだろうか未だによくわかっていないが、やはり「何かに集中した」という事が大きいだろう。それ故に「集中すれば時間は早く過ぎる」という事なのも実感した。逆を言えば、何もしなければ1日は長く感じる。何かに中毒になっている時も長く感じる。これは「年齢を重ねるごと」に加速していくのと非常に似ていて、「何かに取り組むと、時間は加速する」という風に考えてもいいのかもしれない。アインシュタイン相対性理論もまんざらではない。

 


第三に「環境」だ。

何かに飛び込んでみるという事は、「自分を逃げられない環境に置く」という事だと思う。

今回フリーダイビングを行うにあたって、自分を逃げられないようにわざわざホテルをフリーダイビングショップの場所に移した。これが例えば、別のホテルでかなり遠いホテルだったらどうだろうか?嫌気がさして途中から行かなくなる可能性も十分に出てくる。

逃げられない環境に自分を置いたとしても、達成できない事もあると思う。

しかし「逃げられない環境に身を置く」という事は目標達成に繋がりやすくなるという事も事実だ。なぜならば、「逃げられない環境に身を置けば目標明確になり、それにしか進まなくなる」からだ。そしてこの「逃げられない環境に身をおく」という事は、リスクを負うのと同じ事だ。「逃げられない環境に身を置く」というリスクを終えるかどうかで決まるのだ。逃げられない環境に置いて、その後嫌な日々が続いたら誰だって嫌だろう。しかし、「そのわからない未来」にリスクを負えるかどうか。そしてそのリスクが大きければ大きいほど、人は大きく成長する。だから「自分から逃げられない環境を作る事」が、自分を成長させる事につながるのだと思う。

 


第四に「達成感」だ。

やはり達成感いうのは間違いなくある。何かをやり通した!できた!

というのは間違いなく人間に大きな影響を与えるし、自信に繋がる。

そして達成感で大切なのは「1人で達成するよりも、誰かと一緒に達成した方が達成感は大きくなる」という事だ。以前スキューバダイビングのオープンウォーターのライセンスを2人で一緒に取得した。しかし、今回は1人で取得した。この体験は全く違う。

誰かと一緒に何かを達成する事は単純にメリットが多い。

・達成に向けて支え合える。

・楽しい。

・お互いに話せるからアウトプットをし合う。

・情報共有ができる。

・達成感を共有できる。

等だ。これらが目標達成に早く繋がるかどうかは置いておいて

上記のメリットがあり、かつ「達成感を共有できる」というのは大きいと感じている。

 


第五に「教え方」だ。

今回たまたまだが、「マンツーマン」で教えてもらう事ができた。

今までマンツーマンという意味の重要さを分かっていなかった。

しかし今回の事でハッキリと分かった。

「何かを学ぶにあたりマンツーマンで教える」という事は圧倒的に違う。

これにもメリットがいくつかある。

・コーチ(プロ)とのコミュニケーションが増える。

・自分のペースで出来るため、無駄な時間がない。

・全てがフレキシブルになる。

・達成感や楽しさなどのを排除する分、「目標到達」に早い。

よくよく考えると、偉人達のほとんどの師弟という関係に置いて、マンツーマンである事が多いように思う。何かを達成するに置いて、「楽しい」や「達成感」等を求めるのであれば、上記で書いたように複数でやるのが間違いなく良い。しかし、「これができるようになりたい」などの目的がハッキリと明確になっているのであればマンツーマンの方が早く成長するのは間違いないだろう。理由はシンプルで、「無駄がない」からだ。もちろん教師選び

が肝心になる事を忘れてはならない。

 


第六に「興味」だ。

今回ライセンス取得のために、ドキュメントを読む機会があった。そして、ドキュメントに関して、思った。英語がものすごくスムーズに入ってくるのだ。これは間違いなく、「フリーダイビングに興味がある」影響だ。久しぶりにここまで興味に惹かれるものに出会ったと思っている。そしてその直感は当たっていて、今回ドキュメントを読んだときに、いつもなら読む気もなくすような英文でさえ、「スムーズに読めるようになる」のだ。

つまり、「興味を利用するという事はなにかを学ぶにあたり最短の道になる」のだと思う。人間関係だって、絵だって、言語だって、全てにおいてそうだ。なににでも興味を持ち続ける事が学ぶという事に繋がるのだと思う。更に広い視野で考えれば、「この世界に興味を持ち続ける事」が生きる上で非常に大切になってくるのではないだろうか。大人になればなるほど興味が薄れてくる現象、更には興味を保つ、引き出す方法についても考えていきたい。

 


第七に「体を動かす事」だ。

体を動かすことは間違いなく自分を良い方向に向かわせる。自分はもともとじっとしていられないタイプであって、昔から常に動いているし、駆け回っている。はっきりいって、もうじっとしているのは無理だ。苦痛で仕方がない。それよりも、今考えると、じっと座って何かを学んでいた時よりも、大きく成長したのは動きながら聞いたことだったり、話した事だったように思う。つまり自分の場合は、「動き続けている方が自然」なのではないだろうか。そんなこんなで体を動かすことはきっとこの先も自分の人生を明るくする事に繋がるだろう。

 

 

 

今回自分は「偉大な絵を描けるようになるために、自分を成長させるため、フリーダイビングにチャレンジした」という背景がある。正直ここまでいろいろ学べるとは思っていなかった。ここまでいろいろ考えさせてくれたり、アウトプットを残しているのも、間違いなく「いろいろ考えたけど、やってみなくちゃわからないからやってみよう!」と飛び込んだから起こった現象なのだ。あの時やっていなかったらこれらの事は起こらなかった事は間違いない。しかし、その前に「きちんと考えてから行動した」という事だ。例えば、今こうしてブログでアウトプットする事も「始める前に決めていた」。それなりに考えて、リスク、目的、などを明確にした上で取り組んだのだ。これが今までと大きく違った。

だから「何も考えずに行動」するよりか「なぜやるのか考えた上で行動する」のが後に与える影響は大きい。だから、やはり「考える」という事は間違いなくキーポイントになっている。

 


自分の大きなベースとしての学びの背景に「誰からにも、何からにも学ぶ」という事がある。このチャレンジというのは一つのステージにすぎなくて、本当は自分の目の前に起こる現象全てから学べるのだ。そしてその現象にどこまで気づけて、学んでいけるかが重要なのだと思う。このフリーダイビングのように、まだまだ気づけていない事がたくさんある。

それらに気づけるように常に真剣に目の前を生きる。

だから「何をするかよりも、どこまで真剣に一日を生きれるか」が生きる上で最も大切な事なのだと思う。

とにかく、4日間、よく頑張った自分。

君なら明日も一日真剣に生きることができる。

そしてもう心の奥底では、次やる事は決まっているだろ?

行動を考える.2

先程、フリーダイビングの4日間コースを申し込んできた。

今回なぜフリーダイビングをやるのかをきっちりとまとめる。

 

・偉大な絵を描くため

 

絵を描くにはその人の心境が現れる。間違いない。

ブログや、本、小説、などの文章と全く同じだ。

だから描く人自身になにかが起こらない限り、その人から偉大な物が創造される事は難しいだろう。

 

そしてそれはまさに今の自分に必要な事だ。

「死線をくぐる事」はその人を変えるのは間違いないと思っている。

限界寸前に、自分をコントロールできるかどうかに全てがかかっているのだ。

ボクシングでも、絵でも、文章でも、経営でも、戦争でも。

とにかく「これをやらなければ死ぬ」という程のプレッシャーがきた時に、自分をコントロールできるのだろうか。

 

自分はそこを超えてきていない。

だからやらなければならない。

正直、自分がまさかエクストリームスポーツをやる事になるとは思っても見なかった。

完全見る側だったし、これで命を落とす人達はかわいそうだとすら思ったこともある。

しかし、フリーダイビングを見た時に「これなら俺にもできるかも」と思った。

たぶんまだ甘く考えている。本当の海の怖さを俺はまだ知らない。

しかし、海の底に深水したら最後それは「逃げられない状況」になる。

本質を言えば、先ほどの「これをやらなければ死ぬ」という状況と同じだろう。

このスポーツは「自分をコントロールできなければ死ぬ」のだ。

 

わかってはいるが、ずっと自分にコントロールされてきている。

今もそうだ。

だからここを超えなければならない。

今の自分に支配されないように自分が自分自身をコントロールしなければならない。

 

俺は海が好きだ。今まで何度も海に導かれてきた。

そして今その大好きな海が目の前にあって、今自分に必要な物が全て揃っている。

このチャンスは逃さない。

今初めて死への恐怖心を忘れる程の好奇心が芽生えている。

なんだろうこの感覚は。

これは今まで俺が何回か出会ってきた現象と非常に似ている。直感といえばそれで終わってしまうが、自分の体が引き寄せられている感覚すらある。

 

確認する。

 

「偉大な絵を描くためには今の自分を超えなければならない。」

「今の自分を超えるとは、限界点でも自分をコントロールできるようになる事。」

「限界点でも自分をコントロールできるようになるには、逃げられない環境に行かなければならない。」

「逃げられない環境にいくには、自分の興味が勝る環境に行かなければならない。」

「自分の興味が勝るほどの環境が、フリーダイビングだ。」

「だからフリーダイビングを学ぶ。」

 

自分に約束する。

今目の前の事がいろいろある。

ブログを書いたり、絵を書いたり、誰かを想ったり、今後の人生を考えたり。

 

だけど、この4日間はフリーダイビングに集中する。

 

大丈夫。

俺ならできる。

これだけ考えて、自分を信じて、行動に起こしたのだから。

明日が楽しみだ。

 

 

 

行動を考える.1

いくら考えていても行動に起こさなければ意味がないと思っている。当たり前だが、行動ありきの考えなのだ。

何か目の前の現象が起こったとしてまず考える。そしてそのつぎに「行動」を起こさなければその現象に対処する事はできない。だから実「行動が最も大切な事」であって、行動ありきの考えるという事なのだ。考えた末に何もしていない事は実は「なにもしていない」のと同じなのだと思う。


日本は島国だ。

だから海外に行くのには実は少しハードルがある。

海外に行きたいな、と考える人たちはたくさんいる。が、行かない。

イメージをしている(考えている)が、結局行動に起こしていないから行けていないのだ。

 

「考える」と「行動」は具体的にどういう関係にあるのだろうか。

これらを明確にしなければならない。

自分が考える行動とは「自分の体を動かす事」だと考えている。

動いていなければ行動していない。

「行」に「動」と書いて行動。

具体的に動作は、「書く、話す、聞く、行く、作る、考える」などだろう。

 

しかし、考えるは特別だ。

「考える」という動作は行動のうちに入っているが、アウトプットするまでの事を指す。

「考えた物をアウトプット(書く、話す、作る)」するまでが「考える行動」なのだと思う。

考えてもアウトプットまでいってなければそれは行動とは言わない。

 

経験上「考えて行動する人」は優秀な人達が多い。

意味のある事しかやらないから、意味のない行動はせず、無駄がないのだ。

考えて行動をしなければ、遠回りや無駄が発生する。

文章も全く同じで、「無駄のある文章」と「無駄のない文章」でその著者の人柄が出るのは間違いない。

だからブログには人柄が出る。


このブログだって、「とりあえず匿名でもなんでもいいから文章を書いてみよう」

という事から始まった。見切り発車に近い。が、実はブログの事は過去に何度も挑戦しているし、ブログの重要性にはずっと気づいていた。そうして試行錯誤しているうちに、どうすれば続くようになるのだろうという事に対して考え始めて、今書いている。よくよく考えると、「ゆっくりと時間をかけてブログの事を考えていた」のだと思う。だから100%見切り発車というわけではない。そしてその納得のいく答えが自分の中で出た時、こうしてブログを今書いているのだ。

 

まず何かに対して「自分の脳で考える」という行動を起こす。

↓(ここのハードルが高すぎると、やる気がなくなり結局行動に移さない。)

「考えた結果」を行動に移す。

「行動をした結果を踏まえて考える」という行動を起こす。

「改善した結果」を行動に移す。

繰り返し

 

これはトライアンドエラーと全く同じだ。

そしてこれを繰り返していくうちに、長期的に計画が立てられるようになるのだと思う。

 

「自分が納得するまで考えると行動に移す事ができるようになる」。

だが大切なのは、「この納得のいく答えのハードル」を自分に合わせて考える事が大切だ。

深掘りして考えすぎて、実際に行動ができなくなってしまっては元も子もない。

だから大切なポイントは、

「自分の納得のいく答えまで考え続ける」という事も大切だ。

考えて答えが出なければ、実際にやってみてもいい。

「答えを探すために行動に移す」事も考え続けている事と同じだ。

それに「答えを知るためにやる」という理由がある。

 

こういう風に「考える事」も行動の1つだと考えればやはり「行動が先」に来る。

それよりも先にくるもの。

それが「考える行動以外のナニカ」だ。

「考えるという行動」が先か、それとも「考える行動以外のナニカ」が先か。

今の自分はここをしっかりと考える必要がある。

この行動についてはしっかりと腹の底に落ちるまで考える。

 

 

忘れない事を考える.1


最近つくづく思うことは「人はすぐに忘れる生き物だ」という事だ。

今まで何度も何度も決心した事があった。

次はこれをやろう。

これを継続しよう!等と。

しかし、気がつくとやらなくなる。


なぜか?

「その時の決心を忘れている」からだ。

その時思った事は本心であるかもしれない。

しかし、「その時の気持ち」を忘れてしまっては元も子もないのだ。

いくら「今日から俺は変わる!」とその日一日声を上げたとしても、無駄なのだ。

人間は必ず忘れる。


例えば幼少期に辛い体験をしたとする。

その幼少期の辛さや、体験を「忘れていない」からブレない。

根っこの部分が最も大切だ。


だから「忘れないようにする事」が最も大事なのだと思う。

では忘れないようにするにはどうすればいいのか?

それは「書く」という事だ。

メモ帳やI pad , iphone

とにかくまず大前提として「書く」という作業が大事である。


次に、大切なこと。

それは「見返す」という事だ。


なぜ書くのかというと「見返す為に」書いているのだ。

ブログもそうだ。

ブログの1番の閲覧者は誰でもない、自分自身なのだから。

ブログを何度も見返す。

メモ帳も同じ。

メモ帳を何度も見返すから、脳裏に焼き付けられて行く。

Iphoneでメモを書いても、すぐに忘れる。

Iphoneのメモに書いたところで、「データの奥」に入っていて「見返さない」からだ。

自分は何度もそういう体験を繰り返してきた。

 

▼では「見返す」ようにするにはどうすればいいのか?

まず毎日の自分の行動をしっかりと把握する事だ。

朝起きて何をするのか。

散歩に行くのか、スマホを見るのか。

今でいったらほとんどの人があさおきてスマートフォンをチェックするだろう。

そうした後にスマートフォンに自動でリマインダーを設定するなどをすればそれなりに見返す作業は可能だ。


とにかく書いた「そこに行く」作業が必要なのだ。

移動しながら生きている自分にそんな事はできるのだろうか。

ただ、これを工夫して考えていかなければ、「毎日忘れる日々」が続くだろう。


書いて  →  見直す


自分はこの作業が最も大切だという事を「まずはきちんとここで書いておく。」

あとはいかにこの文章を読み直せるようになるかだ。

星を考える.2

この事に関しては書こうかかなり迷った。

やはり忘れないように書いておく事にした。

 

昨夜砂浜で星を見上げていた。

目の前には海があって、向こう側にはサウジアラビアが見える。

星を見ながら、エジプトの料理フォラッフォルをほおばっていた。

すると目の前から黒い猫がやってきた。

よく考えると周りには、何もない。

こんなところに猫がいるのだなと思いながら、フォラッフォルを与えた。

しかし、食べなかった。どうやら好きではないらしい。

そしてしばらくこの黒い猫と一緒に座っていた。

また星を見上げる。

いつにもなく綺麗な星だ。

あの動いてるのは飛行機か。

 

ちょっと待て。

あの「光」は真っ直ぐに動いていない。

左右に「ゆっくりと蛇行しながら下降」している。

光り方は一番星とかなり近い。

というか星と同じ光り方だ。

色は赤、オレンジの中間色あたりだろうか。

とにかくゆっくりと「蛇行」している。

なんだなんだと思いながら、星を追う。

するとこんどはゆっくりと「左」に蛇行し始めた。

明らかに流れ星ではない。流れ星はあんなにゆっくり動かない。

真っ直ぐ飛んでいないのだから飛行機でもない?

ドローン?いやドローンがあんなに高く飛ぶだろうか?

人口衛星?人口衛星は上に打ち上がるものであって下にいったり左にいったりゆらゆら蛇行するのだろうか?

 

「えぇ!?」

思わず1人砂浜で声をあげてしまった。

3分~5分程であろうか?

その後、その「得体の知れない星」はゆっくりと左にそれながら消えていった。

その後もうっすらと何回か見えたが、次第に見えなくなった。


その時に考えた。

自分が気づいていないだけであって、この星にはまだまだ解明されていないものがたくさんあるのだろうと。

それに気づくにはどうすればいいのか。

それは「自然に立ち向かって行く事」なのではないだろうか。

そうすれば、自然が教えてくれるのではないか。

 

以前こういった類の文章を本で読んだ事がある。

「自然が教えてくれる」

「自然に学べ」

なぜ自然から学ばなければならないのか?

自然を考える事は「この星を考える」事に繋がっていて、更にはこの「宇宙を考える」という事に繋がっているのだと思う。

 

なぜ人は朝日を見に行って、夕日を見に行くのか?

ただ「綺麗だから」と言えば簡単だろう。

しかし、それで終わらせたくない。

なぜ綺麗なのか?

もっとこの星を理解して、夕日を見に行きたい。

まだまだこの星はわからない事だらけだ。

 

とにもかくにも、「あれ」は一体何なのだったのだろうか。

これから何かが起こりそうな気がしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

貧困を考える.1

現在エジプトにいる。

昨日タクシーの運転手から彼のおじの家に来ないかと言われたので、お邪魔させていただいた。シナイ半島の田舎中の田舎道を走り、砂漠の中にその家はあった。

目の前には大通りが一本しかなくて、家は6個程、ラクダが7匹ほどいた。

彼の叔父に会い、名を「シャイ」と言った。

相変わらずアラビア人の名前は覚えずらい。


大人が更に2人来て、その後子供が十人ほど自分を見に来た。全員裸足だ。ここはエジプトの中でも田舎中の田舎だから、自分みたいなアジア人が珍しいのだろう。彼らは自分をとても不思議そうな目で見て、声をかけると照れ臭そうにちょっと隠れる。とても可愛いらしい。

 

チャイをいただいた。

このチャイは格別に甘い。砂糖をどっぷり入れているのだろう。

英語は当然しゃべれない。途中から来たもう1人の大人はかろうじて簡単な英語はしゃべれたから軽く通訳みたいな事をしてもらいながらしゃべったが、ほぼほぼ内容はわからなかった。


向こう側にラクダがいる。ラクダは繋がれているのもいれば、繋がれていないラクダもいた。ちょっと見せてくれないかと頼み、ラクダに近寄る。子供達はついてくる。そして驚いた。なんと「黒いラクダ」がいるのだ。一回り小さく、見るからに子供であろう黒いラクダだ。ラクダって子供の頃は黒いのか?ラクダの種類だからなのか?よくわからなかったが、とにかく黒いラクダも非常に美しくて、母親ラクダと一緒に過ごしていた。


すぐに思う。ここにいるラクダ達は、気持ち良さそうだ。

観光名所で観光客に股がられているラクダ達と全く違う。苦しそうではなく、穏やかに過ごしている。観光名所で引かれているラクダ達はいつも苦しそうな表情をしている。時々雄叫びをあげるが、悲鳴をあげているように聞こえてあまり気持ちのいいものではない。それでもラクダの声を始めて聞いた時は驚いた。


子供たちは自分が移動する旅についてくる。

シャイ達も僕がラクダに触ろうとすると喜んで触ってくれと進めてくれる。

そして写真を撮っていいかと聞くと、喜んでカッコいいポーズを決めてくれる。自分が喜びそうな事には全力でもてなしてくれる気持ちが本当に嬉しかった。ありがたかった。


ここにいる人達はたぶん読み書きもロクにできないのであろう。

子供達も学校に行っているのか、行っていないのかすらもわからない。

当然ここには高価な物は何もない。

だがここの人達のハートは美しい。

子供達は裸足で全力で遊んでいる。

そして元気に駆け回る。本当に元気だ。そして瞳が美しい。

何でも興味を示す純粋な心がここにはあるのだ。

夜の星空は間違いなく綺麗だろう。


およそ30分程だった。だが、帰りのタクシーの中では今の出来事がアタマから離れなかった。


どれだけ貧困なのか。

それでも満足している彼らの心境はどうなのだろうか。

自分がこの場所に生まれたとしたら、どうなっていたのだろうか?

ここから立ち上がるには何が必要なのだろうか。

そしてそれは可能なのだろうか?

貧困とは何なのだろうか?

疑問がたくさん残った。

ただ一つ確かな事は、今後も貧困について考え続けていかなければならないという事だ。