教育を考える。

俺は幸いにも教育を受けれた人だ。

だが未だに教育の大事さを根本からわかっていない。

そして今エジプトのハルガダという街にあるスラムを訪れた。

ここには教育が存在しない。

子供は裸足で駆け巡り、真っ当な職業は存在しない。

あるのは隣のゴミ山からゴミを集め、リサイクル工場に持っていく仕事のみだ。

ここの人達はただ毎日耐え続け、今日も一日を凌いでいる。

 

まるで「今の自分を写し出している」ようだ。


人間が初めから教育を受けなかったらどうなるのだろうかと考えた。

初めに思い浮かぶのは、文字が読めないという事だ。俺はアラビア語が読めない。だからアラブ圏に来てから不便さを実感している。それ故にカフェでのチャイすらもぼったくられる始末だ。

もし日本語も読めなかったらと考える。更に不便になる事は間違いない。

 

生きれるのだろうか?


更に、話す事もできなかったとしたらどうだろうか?

シンプルな「おはよう」や「こんばんは」はできるとしても、それなりの用語や語彙力がないとしたら?物を知らない。日本という国や宇宙が存在している事も知らないままだ。当然コンピューターも使えない。コンピュータを手に入れる事は困難になるし、手に入れたとしても文字が読めないから当然操作する事はできない。だから情報も手に入らない。計算もできない。歴史も知らない。


そして最も恐ろしいのは、「疑う」という事すらも知らないという事だ。

疑う事を知らないという事は、誰かに言われた事そのまま信じるという事だ。

誰かに言われた通りに生きれば楽である。

だから、楽に何も考えず、人の言われた通りに生きる人間となる。

そしていつのまにか、自分で考える事ができなくなる。

 

最も大切な「自分で考える」という事を知らない。脳を知ってるだろうか?自分の臓器の名称を知っているだろうか?砂糖を食べすぎると、体にどういった症状が出始めるか知ってるだろうか。


今の世界では教育を受けないで育つと、生きるのが非常に困難になる事は間違いない。だから先進国の大人達は子供達に必ず勉強をさせる。自分達が生きているこの21世紀の今はまさに「教育」こそが最も大切なのだ。


情報は無限大だ。ネットで検索すればいくらでも正しい情報が出てくる。

しかし検索しているだけでは「考える力」は身につかない。

知識は知ってれば知ってるほど有利になるだろう。知識は考える力を使う上での基礎みたいなものなのかもしれない。この情報革命が起こった現代で、ネット上の情報を追いかけ続けてもキリがない。ある程度の教育まで達しれば、後は自分の力で考える訓練をつけるのが正しい教育だと思う。

だから今自分もこうしてこの記事を書いているのだ。

 

教育。

大人になった今自分はどういう教育を受けたいだろうか。

子供に「なぜ波があるの?」と質問されたら答えられるだろうか。

俺は無理に答えを出す必要はないと思っている。

それよりも大切なのは、「一緒に考える」という事だ。

なぜ波があるのだろうか?分からない。だから一緒に考えてみようか。

生まれ変わったら、そんな教育を受けてみたいと思う。